浅沼(Jay)秀二シェフ 世界の食との小さな出逢い 第4回バゲットの美味しいささやき

バゲットの美味しいささやき

イラスト 浅沼秀二


 パリに住んでいたときの話。薄い日差しを映しながらゆったりと古都を流れるセーヌ川に架かる橋ポンヌフ。古い石橋を北に向かって渡り、ショッピングモールのレ・アールを通り抜けると、そこにマルシェがあった。パリに住み始めたころは昼過ぎまでキャナルプリュースというテレビ局で働いていて、帰りはパリプラン(地図)片手に街を散策しながらここへ寄って買い物をする、それが日課となっていた。
 マルシェに着いて買い物を始めるのはいつも八百屋だった。古い石造りの建物の前に、赤いリンゴ、黄色いズッキーニ、緑のアーティチョークとなどの野菜が、色鮮やかに並べられている。アーティチョークは大きな花のつぼみ。ほくほくして美味この上ない。フロマージェリーに飾られたチーズのなかで、お気に入りは山羊系のシェーブル。山羊というと日本人は「臭い」と言うかもしれない。だがこれは違う。シェーブルは繊細で女性的。パリジェンヌも牛系より山羊系の方が好きという人が多い。
 お酒に強くないぼくもワインは毎日飲んだ。よく買ったのは深みのあるサンテミリオン、グラーヴなどのメドックや、南部の爽やかなコートデュローヌなど。パリジャンを真似て安く美味しいワインを探し当てることを愉しんだ。
 シャルキュトリは肉と総菜店。ハムやきれいなテリーヌも並ぶ。ちょっと変わったのはブーダン・ノワール。血を使ったソーセージで色は黒っぽい。しかし、血のにおいは全く感じられず、驚くほど上品で女性にも人気のソーセージ。
 そしてマルシェを一巡したあと、最後に行くのはブーランジェリー(パン屋)。時間を見計らって午後4時に行くようにしていた。
「ボンジュール」
ムッシューがレジの近くに立っている。バゲットが並んでいるところへ行くと、いつものささやき声が聞こえてくる。
「ピキピッキッ…」
焼きたてのバゲットの声。パリで聞こえてくるいちばん美味しいささやきだ。ここへ通っている間に午後4時ごろバゲットが焼き上がるのを知った。
「ウンバゲット、シルヴプレ」
4フランを払ってまだ暖かいバゲットを抱えアパルトマンへ向かう。焼きたての香ばしさに我慢しきれず、歩きながらついついかぶりつく。そしてまたひと口。カリッとしてふんわり、そして今日もまた温かい。何度もかぶりつきながら石畳を歩く。するとバゲットにかぶりつく音に、裏通りのカフェの老紳士たちのおしゃべりが次第に重なってくる。ちょっと寄り道してカフェ・ノワゼットでも飲んで行くとしよう。
 パリのブーランジェリーで焼きたてのバゲットがささやいていたら、ぜひともその誘惑につられて欲しい。暖かいまま頬張って古い街並みを歩いてみれば、パリもまたひと味違った趣になるだろう。


浅沼(Jay)秀二
シェフ、ホリスティック・ヘルス・コーチ。蕎麦、フレンチ、懐石、インド料理などの経験を活かし、「食と健康の未来」を追求しながら、「食と人との繋がり」を探し求める。オーガニック納豆、麹食品など健康食品も取り扱っている。セミナー、講演の依頼も受け付け中。
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