Vol.5 君は奴隷の歴史を知っているか。 データベース公開

 2月は黒人歴史月間。今回はニューヨーク州の奴隷の歴史をひもとくきっかけになるかもしれない、奴隷のデータベースの話。

奴隷1人ひとりをたどって

 マンハッタン区のニューヨーク市立大学ジョン・ジェイ・カレッジ・オブ・クリミナル・ジャスティスは1月31日、ニューヨーク州内の奴隷の記録をまとめたデータベースを公開した(2月2日号本紙既報)。https://nyslavery.commons.gc.cuny.eduから誰でもアクセスできる。1525年から南北戦争終了時までの、奴隷本人や所有者3万5000件以上を個人別に収録。複数の記録に分散していた情報を1つに整理し、奴隷の氏名や死亡日時など30以上の条件から検索できるようにした。
 データベースは同大学公共経営学教授のネッド・ベントンさんと准教授のジュディ・ライン=ピータースさんを中心に、行政学専攻の学生ボランティア14人が共同で整理。ベントンさんは約15年前、ニューヨーク州ラーチモントの地元新聞で地域の黒人奴隷の歴史について連載を書いていた。奴隷1人ひとりの生死を、出生証明書や奴隷の輸送記録など、散在する記録を集めてたどっていた。
 2016年、これらをまとめないかとピータースさんに提案すると協力を快諾。17年1月から本格的に整理を始め、約1年後に公開にこぎつけた。
 そもそも米国の黒人奴隷といえば南部のイメージが強い。確かに南北戦争時、北部は奴隷解放を、南部は存続を訴えていた。だがニューヨークを始め北部の州でも植民地当時から奴隷は労働力を支える重要な要素だった。
 州内の奴隷制度は公式には1626年に始まり、オランダ、英国による植民地時代を経て独立後、1799年に段階的奴隷解放令を制定、1827年に廃止された。

ネッド・ベントンさん

ネッド・ベントンさん

奴隷解放活動家=奴隷所有者?

 奴隷解放を訴えた活動家は、同時に所有者である者も少なくなかった。当時の上院議員の約3分の2は所有者だったとされる。同大学の名前の由来となった、米国最初の連邦裁判所長官、ジョン・ジェイ(1745-1829)もその1人だった。
 裕福な家庭に生まれたジョン・ジェイは少なくとも17人の奴隷を所有していたという記録がある。だが解放にも意欲的で、1777年の州憲法起草の際も奴隷廃止の文言を入れようと働きかけた。段階的解放令を提案したとされ、解放後の奴隷が生活できる制度を整えていった。自身が所有していた奴隷を即座に解放することもできたが、それをしなかった。解放されても奴隷はホームレスになるだけ。読み書きもできなかったため、生きる術がなかったからだ。こうして、奴隷所有者でありながら奴隷解放活動家、という一見矛盾した立場の要人が多かったのだという。

歴史の探求は続く

 データベース公開から約1カ月が経った今も、べントンさんらチームは改良を続ける。黒人が集った教会の記録や遺言、奴隷と所有者との契約書などを当たることで、奴隷同士の関係を把握し、他州に逃げた奴隷なども網羅するつもりだ。
 現代のニューヨークでも黒人への差別意識が根強いと感じることがある。データベースでは人種差別への解決策や理想論を述べているわけではない。だがベントンさんは人々が歴史を考えるきっかけになればと期待している。「データベースの情報は歴史の解明と分析を促し、現代問題の議論に役立つ。ジョン・ジェイが奴隷所有者であったことを認識しながら、彼が行った正義への挑戦を引き継ぎたい」

1811年ごろの奴隷のイメージ(photo: ママロネック公共図書館)

1811年ごろの奴隷のイメージ(photo: ママロネック公共図書館)

ニューヨーク州の奴隷の歴史

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 1492年、マゼラン一行がアメリカ大陸を発見。開拓を続けたヨーロッパ人は1525年、マンハッタン区のハドソン川を探索した。このとき航海チームは先住民58人を本国へ連れて帰った。これがニューヨーク州の奴隷の始まりだとされる。
 初期の州はオランダの占領下にあった。1621年に設立されたオランダ領西インド会社は現在のローワーマンハッタンで毛皮貿易を始め、マンハッタン島は「ニューアムステルダム」と呼ばれた。同社は開拓のため26年、15世紀ごろからヨーロッパで浸透していたアフリカの黒人を奴隷として運び込んだ。これがニューヨークでの黒人奴隷の始まりだといわれている。同社は毎年何百人もの奴隷を送り込み、農業など労働力の多くを奴隷に頼った。徴兵し、土地の警備にも当たらせた。勤続年数が長い奴隷はさらなる勤続と穀物を納めることと引き換えに「半自由」として一定の自由を手に入れることができた。
 奴隷の自由は長く続かなかった。64年、英国が植民地支配を始めたのだ。英国王ジェームズ2世が「ニューアムステルダム」を「ニューヨーク」と名付け、奴隷制はかなり圧政的になった。
 奴隷は州の労働力の約25%を占めた。男性は農耕の他、ブロードウェーやザ・ウォールなどの建築物を築いた。女性は所有者の家で炊事、洗濯や家族の世話もし、幼い子どもも働いた。主な死亡原因は栄養不足や過労、罰、黄熱病などの疫病だった。人権は無視され、所有者に歯向かうと罰として背中を何度もムチで打たれた。所有者にとって奴隷は「使い捨て」の労働力であり、病死や餓死しても次の奴隷を買えば済んだのだ。1703年、ニューヨーク市内の42%の世帯が奴隷を所有していたという。
 76年、独立宣言によりアメリカ合衆国が成立。州は奴隷解放へと向かう。99年、段階的奴隷解放令が制定され、同年以降に生まれた奴隷の子どもは自由になった。その後も解放が進み、公式には1827年をもって州の奴隷制度は廃止された。だが30年の国勢調査では州に75人の奴隷が存在したとの記録があり、解放後も奴隷生活を強いられていた可能性がある。また65年の南北戦争終了時まで、南部から逃げてくる奴隷もいた。
(ベントンさんへの取材による)

目で見て学べる奴隷の歴史

アフリカ人墓地国家記念碑
17〜18世紀、1万5000人以上のアフリカ人(奴隷・自由人)の遺体が埋葬された場所。1991年に発見された。併設の博物館で当時の奴隷の実態が学べる。

290 Broadway
(bet. Reade & Worth Sts.)
☎212-637-2019
www.nps.gov/afbg

取材・文/安西裕莉子(本紙)