百年都市ニューヨーク 第39回 1804年生誕 タウンゼンド・ハリス(下)

 1849年1月、逆風にもめげず貧困層のための無償高等教育機関「フリーアカデミー」を設立したタウンゼンド・ハリスは、同校の第1回生が校門をくぐるのを見届けるやいなや、ニューヨーク教育界にきっぱりと別れを告げて、世界に針路を向ける。

ハリスは1856年から62年まで日本に滞在した。その間、下田の女性たちに依頼して
作成した初の日本製の星条旗(写真提供:ニューヨーク市立大学シティカレッジ校資料室)

人生半ばで鮮やかなキャリアチェンジ

 ハリスは、陶器店の最高経営責任者だった兄ジョーンから資金を借り受け、帆船を一隻所有すると、今まで封印していた東洋への情熱が噴出、熱病に取り憑かれたかのようにアジア各国に出張した。後年の回顧録によると1849年から55年までの6年間、彼はクリスマスを全てアジア諸国で過ごしている。訪問地はマニラや香港などの港湾商業都市だけでなくニューギニアの奥地やヒマラヤ高地など未開の地にも及び、植物学者や文化人類学者ばりの克明な観察記録まで残した。
 しかし、博識で行動力旺盛なハリスも商才には恵まれずビジネスは不調をたどる。そんな彼に最後まで資金を援助していた兄ジョーンが1852年に亡くなり、ニューヨークの陶器商本店も左前になってくると、さらなる方向転換を考えざるを得なくなった。だが、故国に帰るには早すぎる。蒸気船も日進月歩で性能を上げ国際貿易が花盛りの当時、政治も経済もアジアが「ホット」だったのだ。

私にしかできない職務

 ハリスは、持ち前の明朗な性格とコミュニケーション能力が、むしろ外交や国際政治に向いているような気がしてきた。事実、各国の港町では世界中の外交官と交流し、短期間に膨大なネットワークを築いてきた。そんな折、マシュー・ペリー提督率いる米海軍艦隊(黒船)が日本遠征前に上海に入港。すかさずハリスは船に漕ぎ寄り、同行を願い出るも、「民間人の軍艦乗船は不可」とにべもなく拒否される。ハリスの日本への関心が膨らみだすのは、このころからだ。
 とにかく外交官となって実績を積みたい。どこでもいいからアジアの港湾都市の米国領事にさせてくれと、マーシー国務長官=当時=らに積極的に働きかけ、1854年に寧波領事のポストが空くと即座に就任した。同年3月、ペリー提督は2度目の日本遠征で日米和親条約の締結までこぎつけている。ハリスが目をつけたのは、その第11条の文言。いわく「条約締結から18カ月経過後に、両国のいずれかが必要を認めれば、下田に領事官を駐在させることができる」
 「日本における初代米国領事。私にしかできない職務だ。何が何でも手に入れる」。そう決意したハリスは、急いでニューヨークに戻り、知り合いの援助を得ると積極的にポスト獲得工作に走る。最有力候補だったベテラン外交官が辞任したこともあって、意外にもあっさりピアス大統領=当時=の任命を受け、1855年8月4日、ハリスは正式に日本に赴任することになった。

厄介なミッション

とはいえ、決してバラ色の船出ではない。ペリーが開国したといっても、あくまでも軍艦を使った威嚇作戦で無理矢理215年間に及ぶ「鎖国」の鎖を引きちぎっただけの乱暴な話だ。ここから先、民主的かつ公平な国際関係を築くのは初代領事の腕にかかっている。英語も通じない未知の閉鎖社会と一体どんな交渉ができるというのか? 誰の目にも「厄介なミッション」であることは間違いなく、有力候補が辞退したのもうなずける。
 しかし、教育委員会の一件でもそうだが「他人のやりたがらない職務」を進んで求めるのがハリスの流儀。このときも、フリーアカデミー創設と同等の熱い想いが再び彼の胸にたぎっていたことだろう。そして無償教育も開国もキーワードは「フリー」である。
 1855年10月にニューヨーク港を出発したハリスは、マレーシアのペナン島でオランダ人通訳ヒュースケン(ニューヨークで面接し採用した、3カ国語に堪能な青年)と合流して、タイ王国で通商条約を1つ締結したのちに、1856年8月21日、伊豆下田港に到着した。ところが、日本側にはハリスを受け入れるつもりは微塵もなく「即刻お引き取り願いたい」というのが徳川幕府の頑とした姿勢だった。
 「和親条約の11条はどのようにも解釈可能で、拘束力はない」が日本側の主張である。一方、ハリスのミッションは、ピアス大統領の親書をEmperorに届けること、そして江戸に領事館を置き、日米修好通報条約を締結すること。この3点を完了せずには絶対に帰国できない。ハリスもヒュースケンも不退転の決意での下田上陸である。日米の見解にはのっけから激しい相違があり、「修好」への道は伊豆の山々同様、険しかった。(つづく)