百年都市ニューヨーク 第45回 1914年創業 ラス&ドーターズ

 通りを隔てただけで街の様相がガラリと変わるのがニューヨークの魅力だ。ぶらタモリ的な街歩きが楽しい。中でも古い街並みや文化が残っているのは、マンハッタンの南部。とくにローワーイーストサイドは100年前の面影が色濃い。

毎朝開店と同時に客が詰めかける店内。整理券をもらい最低30分待ちでも誰一人文句は言わない

ユダヤ人街

 米国が本腰を入れて産業革命を進めた19世紀後半から英国と肩を並べる大工業国に成長した20世紀前半にかけて、このエリアにはヨーロッパの動乱や迫害を逃れたユダヤ系移民の労働者が続々と押し寄せてきた。彼らの多くは洋服や靴作りの職人だった。狭いアパートを複数の家族で共有し、暇さえあれば部屋の隅のミシンで縫製の下請け仕事に精を出していた。
 ユダヤの歴史は3000年以上だ。自文化を尊び次世代に伝えていく気質は庶民1人ひとりに浸透している。宗教生活はもとより、娯楽、慣習もヨーロッパ各地で培われたものを大切にニューヨークに持ってきた。食文化も例外でない。男も女も仕事に忙しく料理する時間が取れない彼らにとって、手軽に食欲を満たせる出来合いの惣菜は不可欠だ。ユダヤの惣菜料理は「デリカテッセン」と「アペタイジング」の2種類に大別できる。前者は、パストラミサンドイッチやビーフソーセージを使ったホットドッグなど肉系。後者は魚系で、酢漬けニシンや魚卵、そしてスモークサーモンなどの薫製魚である。それぞれ全く別個の業種で専門性を重んじる。日本でいえば佃煮屋と漬け物屋ぐらい違う。ローワーイーストサイドを歩いているとそんな惣菜店の老舗に出くわす。

魚は南北アメリカ以外にヨーロッパからも入荷。最高のものしか提供しないのが身上

全米初の“ドーターズ”

 ハウストン通りに面したラス&ドーターズもその1つ。アペタイジングの方である。
 いつ行っても満員の人気店でガラスケースの中にはサーモンやスタージョンなど薫製魚だけでも10種類近くが並ぶ。注文を受けた職人たちが紙のような薄さでそれらを切りさばく姿をカウンター越しに眺めていると生唾が出る。
 創業者のジョエル・ラスは1907年、東ヨーロッパのストリジゾウ(現ポーランド)からローワーイーストサイドに身ひとつで移住してきた。樽詰めの酢漬けニシンを手押しの荷車に乗せて売り歩くこと7年。1914年に念願の自分の店をオーチャードストリートに開ける。現住所に移ったのが1920年というから、99年間、同じ場所で同じ商品を売っているわけだ。
 息子のいなかったジョエルは3人の娘(ハッティ、アイダ、アン)が子どもの頃から徹底的に商売を教え込んだ。彼女たちが経営の中枢を担い始めた1935年には、店名を現在の「ラス&ドーターズ」に改称。「…&サンズ」とうたって家族経営を表明する企業は当たり前のようにあった時代に「ドーターズ」と付けたのは米国初。当時としては相当、先進的な決断だった。ドーターズは幸せに結婚し、連れ合いたちもごく自然にジョエルの商売を継承した。
 店の身上は最高の品質を提供すること。それは今も変わらない。ニシンもサーモンも世界中の生産者から選りすぐったベストだけをケースに並べる。ファンも世界中から押し寄せ、注文してくる。天皇陛下と雅子さまもこの店がご贔屓という噂を聞いたことがある。
 しかし、1979年になると、さすがに後継者問題が生じる。ドーターズの努力のおかげで、高等教育を受けた第3世代は、大企業や他の業界で活躍していた。そんな中、3女アンの息子マーク・ラス・フェダーマンが、弁護士のキャリアを投げ打って店を継ぐ決意をする。そこから30年は、店周辺の治安が悪化して不遇の時代だったが、マークの弁護士時代に築いた交渉力の助けもあり、なんとかアペタイジングの「灯」を絶やさずにすんだ。  
 マークは2009年、娘のニッキーと従兄弟のジョシュに、経営のバトンを渡す。米国の企業の中で創業者一家が4世代継承するケースは1%に満たないそうだから、これは稀有な快挙だ。
 ニッキーは才女で、政治学を専攻後、イエール大学のビジネススクールに通ったり、途上国開発やヘルスケアの仕事をしたり、さまざまな分野で活躍してきたが、結局、家業を継ぐことに決めた。当時28歳。
 「家の商売だけはやりたくなかったの。今の時代、曽祖父や祖父母や父親と同じ仕事するなんて、考えられないでしょ?」あるインタビューでニッキーは語っている。「でも、これだけ愛されている店の4代目って、考えてみたら、大変な恩恵でチャンスなのよ。(中略)子どものころから手伝っているからお店の感覚は体に染み付いている。毎日必ずお客さんの誰かが自分とこの店の関わりについて語ってくれるの。お店を媒介にしてみんなの歴史がつながっているのよ」
家族で支え地域で愛されたゆえの100年。昨今流行りの「持続可能」も愛なくしては、成し得ないのだ。 
(了)

かつてのユダヤ人街に残る数少ない100年老舗。地元のみならず世界中にファンがいる

取材・文/中村英雄 映像ディレクター。ニューヨーク在住28年。人物、歴史、科学、スポーツ、音楽、医療など多彩な分野のドキュメンタリー番組を手掛ける。主な制作番組に「すばらしい世界旅行」(NTV)、「住めば地球」(朝日放送)、「ニューヨーカーズ」(NHK)、「報道ステーション」(テレビ朝日)、「プラス10」(BSジャパン)などがある。