アートのパワー 第4回 二人のアジア系アメリカ人の女性(中) 三世:ノブコ・ミヤモト(前編)

アートのパワー 第4回 二人のアジア系アメリカ人の女性(中) 三世:ノブコ・ミヤモト(前編)

 ノブコ・ミヤモト(Nobuko JoAnne Miyamoto)の自伝『Not Yo’ Butterfly – My Long Song of Relocation, Race, Love, and Revolution』と CD 「Nobuko Miyamoto 120,000 Stories」は2021年に発行された。1939年ロサンゼルスに生まれた彼女もウォンと同様に三世である。彼女はアメリカ大陸横断鉄道の仕事もした父親と当時の異人種間混交法にも関わらず結婚したモルモン教の女性との間に生まれたハーフである。2歳の時、18,000人の日系人と共に日系人強制収容所に指定されたサンタ・アニタパーク競馬場に一時収容された。一家は、それまでハリウッドの金持ちの遊び場であったこの競馬場の厩舎の馬房(馬小屋)に住まなければならなかった。

 アメリカ人の母方の祖母のツテで 甜菜(シュガービーツ)の収穫をする約束をして家族は釈放され、その後10ヵ所に用意された収容所に入れられずにすんだ。強制収容された12万の日系人は、一世の日本人(アメリカ国籍は許されていなかった)とアメリカ生まれでアメリカ国籍を持つ2世と3世からなる。12万人のうち3分の2はアメリカ国籍を有し、その半数は未成年であった。アメリカ政府は、日系人の忠誠を疑った(ドイツ人もイタリア人もそのような扱いは受けなかった)。戦時中ミヤモト一家はユタ州で過ごし、戦後ロサンゼルスに戻った。

 音楽好きの家族に囲まれ、西洋のクラシックから日本の謡にまで触れて育った。近所の音楽/ダンススクールに通う様になり、日系人に対する激しい人種差別が尾を引く中、幼いミヤモトは社会の矛盾に気付くようになった。ミヤモトはシャイであったが、ダンスを通して10才で競争意識を高め、よりレベルの高いダンススクールに通うようになった。収容所からロサンゼルスに戻った日系人達は、宗教にはこだわらず、お寺や日系コミュニテイ・センターのイベントを通じて、日系コミュニティ復興に努めていた。ミヤモトもダンサーとして参加した。ダンススクールでのバレーのレッスンは特に厳しかった。他のダンサーの何倍も上手くないといけないと注意された。

 

Not Yo’ Butterfly – My Long Song of Relocation, Race, Love, and Revolution

 1955年、『王様と私』が映画化された。映画は、ユル・ブリンナーがタイの王様役で、イギリス人女性に民主主義の価値観を教わるというストーリだった。15歳のミヤモトは王様の子供役で出演した。アメリカ大衆に向けた映画で、主人公が初めて白人ではない魅力的な男性であった。実際のところ、ブリンナーはタイ人でもアジア系でもなく、ロシア系であった。でも映画は、アメリカの大衆からは大受けして、アカデミー賞の9部門にノミネートされ、ユル・ブリンナーの主演男優賞を含む5部門で受賞した。しかし、内容はタイの人々にとって受け入れられないものであり、タイ政府は上映を禁じた。

 ミヤモトは、高校在学中に有名な振付師、ジャック・コールとジェローム・ロビンズが指導していた映画に出演した。高校卒業後、ラスベガスのデザートインで10週間ソロ出演を獲得した。しかし、「芸者ガールス・レビュー」という演目で、三流の宝塚ショーのようなもの。出演者は日本から呼び寄せ、ミヤモトだけがアメリカ人。出演の合間に男性客の相手をさせられ、その待遇に初めて抗議した、と書いている。

 ミュージカルの作詞作曲家として名声を得ていたロジャース&ハマースタイン二世の『王様と私』、『南太平洋』は、アジア人男性を幼稚化し、女性を蝶々夫人化するものばかりであった。その後、1957年のベストセラー小説、中国生まれ、エール大学卒のC.Y.リーの『フラワー・ドラム・ソング』(原作名は「グラント・アヴェニュー」)がミュージカル制作された。共産圏からアメリカに移民した裕福な家族の、伝統的な価値観を持つ父親とアメリカ育ちの息子を描いている。登場人物はロジャース&ハマースタイン二世のもとでステレオタイプ化された。 (下)に続く

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文/ 中里 スミ(なかざと・すみ)

アクセアサリー・アーティト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴37年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。

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