アートのパワー 第21回 ルース・アサワ(2)

アートのパワー 第21回
ルース・アサワ(2)

 

ローワー収容所に移送された9千人の囚人は、急ごしらえで建てられたため、未乾燥のままの緑色の木材で建てられた宿舎(バラック)に収容された。木材が乾燥するにつれ、壁や屋根に隙間ができ、埃や風、雨、雪が舞い込んだ。母親が野菜の種をスーツケースに入れておいたので、バラックの前に小さな畑を作ることができた。  

ルース・アサワは収容所内の高校に通い学生活動に参加した。カメラを収容所の持ち込むことが禁じられていたので卒業アルバム用にルースが皆の似顔絵を描いた。美術の先生に勧められ、ミルウォーキー州立教員養成大学に入学した。学費はクエーカー組織から奨学金を得た。ルースの3人の兄姉もクエーカー教徒が設立したアイオワ州の大学に進学していた。  

ミルウォーキーの下宿先では住み込みの女中として働き、食事も雇用者家族とは別に台所で一人で食べた。大学3年生の時、日系人を実習生に受け入れる学校がどこにもなく、学位を修了するのに必要な教育実習ができず、そのため卒業もできないことがわかった。しかし、この時、新しい方向性が見えてきた。大学の同級生達から、当時最も斬新な美術教育を行っているノースカロライナ州にあるブラック・マウンテン・カレッジの話を聞いた。1945年、6週間の夏期プログラムに参加した(その夏、日本は終戦を迎えた)。アニ・アルバース(1899-1974。ドイツ人のテキスタイル・アーチスト、版画家)からテキスタイルアートを学びたかったが、6週間では教えられないと断られ、代わりに夫のヨゼフ・アルバース(1888-1976。ドイツ人のアーテスト。バウハウスの美術教育をアメリカで広めた)の元で色彩・デザインを学ぶことになった。ルースは、彼の形式主義(感情抜き)の思想に惹かれた。感情を抑えないと乗り切れない環境で育ったからだった。アルバースはルースの長年の恩師となった。1947年にはメキシコに行く機会ができ、そこでバスケット(籠)作りを学び、立体作品の制作を始めた。

ホイットニー美術館での個展から。
「無題」(Hanging Six-Lobed, Complex Interlocking Continuous Form within a Form with Two Interior Sphere)1955(refabricated 1957-58)

ブラック・マウンテンでは、専門分野の垣根を越えた学際的講座で、マース・カニングハム(ダンサー)、ジョン・ケージ(作曲家、音楽理論家)、ジェイコブ・ローレンス(黒人画家)、ウィリアム・デクーニング(画家)から学んだ。ロバート・ラウシェンバーグとケネス・ノーランドは、ルースと同期で、後輩にはサイ・トゥオンブリーがいた。学費を賄うために、ルースは女中の仕事をした。  

1946年ブラック・マウンテン在学中に、生涯の伴侶となったアルバート・ラニアーに出会った。父親が弁護士/検事、先祖は1670年にアメリカに来て独立戦争で戦ったという、いわゆる由緒ある家系の出で、ジョ-ジア工科大学で建築を学んでいたが、建築家になるには実体験が必要と考え、ブラック・マウンテンの教育方針に惹かれてやってきた。ミニマム・ハウスというコンセプトで、実際その家を構内に建てた。地元の木材と産業素材を使った当時はまだ新しい考え方で、彼は生涯このコンセプトを追求した。1948年にバックミンスター・フラー(1875-1983。ジオデシック・ドームの考案者、建築家、システム理論家、著者、デザイナー、発明家、思想家、フューチャリスト)がブラック・マウンテンで教鞭をとった時には、オズの魔法使いがやって来た、と歓迎された。  

ルースとアルバートは、お互いの思想や目指す方向性に惹かれ合った。しかし、両親は双方とも、二人の交際に反対した。1948年アルバートはサンフランシスコのボヘミアン風生活に興味を持ち、仕事を探しに出かけ、ルースは、両親がロスの方で農業を立ち上げるのを手伝いに行った。1949年二人は結婚。当時異人種婚が許されていたのはカルフォルニア州とワシントン州だけだった。ルースが戦争花嫁に間違えられることも少なくなかった。翌年、長男の出産とほぼ同時に、混血の養子を迎えた。ルースは自分の6人兄弟姉妹のように6人の子供が欲しいと宣言し、実の子供4人と養子2人を得て、子供達がいる同じ空間で創作を続けた。生活は厳しかったが、農家の物がない環境で育ったので、やりくり上手だった。家族が増えると、アルバートと新しい住み家を探し、住みやすい状態に手直しを加えるのだった。

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文/ 中里 スミ(なかざと・すみ)

アクセアサリー・アーティト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴37年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。

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