『大久保ミネ:ポートレイト』
チェルシーの靖山画廊で3月1日まで開催
サンフランシスコ万国博覧会の3年後、すべてが変わった。真珠湾が爆撃され、1942年2月19日に大統領令9066号が発令され、すべての日系人はアメリカの強制収容所に「疎開」させられた。そのうちの3分の2は、出生地主義によるアメリカ市民で、うち半数は未成年だった(アメリカの法律は非白人への市民権を禁じていたため、両親は帰化できなかった)。早川は、いわゆる西部防衛帯を越えてニューメキシコに移住できたが、日比夫妻と大久保とその弟はタンフォラン集合センターに送られた。ドロシア・ラングが(政府の戦争移転住局の仕事で)撮影した、タンフォラン行きのバスを待つ久子と娘の写真がある。小圃と松三郎はタンフォランでアートプログラムを立ち上げた。半年後、小圃夫妻、日比夫妻、大久保と弟は、ユタ州の塩辛い埃っぽい砂漠のトパーズ戦争移住センターに収容された。そこで小圃と松三郎はアート・スクールを作り、子供や大人向けアート教室を開き、小圃、日比夫妻、大久保はそこで教鞭をとった。

ワン博士は、早川の作品を探し出すのに長い年月を費やした。彼女は30年間暮らしたカリフォルニアの自宅から、アーティスト・コミュニティがあるニューメキシコに急遽非難した後、サンタフェでは1943~53年まで多数の展覧会を開催した。1944年にはニューメキシコ美術館のアルコーブで個展を開催している。早川は肖像画を得意としていた。巧みに描かれた肖像は、被写体の見かけだけでなく、内なる精神までも浮き彫りにした。彼女の作品に描かれる光は、カリフォルニアの陽光の特異性を思い起こさせる。彼女は1953年に54歳で亡くなった。1985年、サンタフェ・イースト・ギャラリーは彼女の作品展を開催した。ここで販売された作品の多くは散逸し、行方不明のままである。
大久保はトパーズで多忙を極めた。アートスクールで子供たちを教えるかたわら、トパーズ・タイムズ紙の挿絵を描き、文芸誌トレックの制作を手伝った。1943年には、サンフランシスコ美術連盟の年次展覧会に収容所の看守の絵を出品し、入賞した。サンフランシスコ・クロニカル誌の編集者がこの絵を紹介したことで、フォーチュン誌の編集者の目に留まり、1943年の年末号に彼女のイラストが掲載されることになった。興味深いことに、この号では国吉康雄と八島太郎もコラボレーションしている。これらの作品は、1944年にサンフランシスコ近代美術館で開催された特別展で展示された。大久保は終戦前にトパーズを出て、フォーチュン誌で働くことができた。彼女の最初の仕事は、1944年4月の日本特集号の挿絵を描くことだった。日本に行ったこともないのに、日本の生活のイラストを頼まれたのは皮肉なものだ。私はその号に目を通す機会があったのだが、ある商店街の名前が書かれた垂れ幕のイラストで漢字が逆になっていることに気づき、大久保はわざとそうしたのではないかと思った。

「自由になりたい、トパーズの上に見える雲になりたい」と作品の裏に書かれている。
この展覧会のことを知ったとき、私は大久保の名前だけは、206枚のイラストが掲載された『市民13660』(家族は番号で識別される)で知っていた。日記体の記述は、彼女がヨーロッパにいた1939年から1944年に収容所から釈放されるまでを綴っている。大久保は目撃者として、辛辣なウィットと洞察力で日々の闘争を報告している(収容所ではカメラは禁止されていた)。終戦後間もない1946年にコロンビア大学から出版されたことは、日系アメリカ人の苦境に同情的な人々がいたことを示している。1981年、アメリカ政府に謝罪を求めるために「戦時中の民間人の転住及び抑留に関する委員会」が設立されたとき、大久保は証言し、証拠として『市民13660』を提出した。米議会は1988年、第二次世界大戦中に日本人の先祖を持つ人々が不法に故郷から連れ去られたことを認めた。1984年、大久保は『市民13660』でアメリカン・ブック・アワードを受賞。(注:アート・スピーゲルマンの『Maus』は、彼の父親がポーランド系ユダヤ人であり、ホロコーストの生存者であった経験を、1980年から1991年にかけてグラフィック・ノベルとして連載した。1992年にピューリッツァーを受賞している。しかし、『マウス』の前には『市民13660』があった)。

油絵、24”x20”、日比エステート所蔵
サンフランシスコの坂の下にいる自分と、右上に本を持つ子供たちの姿。黄色い街灯が太陽への道を切り開き、未来への希望を表現している。
文/中里 スミ(なかざと・すみ)
アクセサリー・アーティト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴38年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。
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