ネルソンA.ロックフェラー:政治家、芸術支援者として
ネルソンA.ロックフェラーは、ラテンアメリカに関わるアメリカ政府の3つのポストを歴任した。第二次世界大戦中は、「米州問題調整局(Office of the Coordinator in Inter-American Affairs)」の長として枢軸国の影響力に対抗し、文化外交を推進し、技術支援プログラムを展開した(1940〜44)。1944〜45年には国務次官補(ラテンアメリカ担当)として、善隣政策の下で非介入・経済協力・開発支援を推進した。そして69年、リチャード・ニクソン大統領下でラテンアメリカ20カ国への実地調査ミッションの責任者に任命され、その結果として「ロックフェラー報告書(Rockefeller Report)」が提出された。この報告書では、貿易改革、より効果的な支援、アメリカによる内政干渉の削減が提言されたが、殆ど実行に移されなかった。

1959〜73年にはニューヨーク州知事を4期務めた。任期中の主な実績には、州立ニューヨーク大学(SUNY)システムの創設、メディケイド(低所得者向け医療保険)の導入、環境保全局(Department of Environmental Conservation)の設立、都市再開発の推進などがある。彼の政治思想は、大恐慌期のニューディール政策を掲げたフランクリンD.ルーズベルトの影響を強く受けていて、東海岸の「リベラル・リパブリカン」として知られていた。
ネルソンは、いつか大統領になることを望んでいた。「これだけの富に生まれたのだから、あとはそれしかない」と語っていた。しかし彼の政治キャリアは、ニクソン大統領辞任後のジェラルド・フォード政権下での副大統領止まりだった。1960、64、68年の大統領選で共和党の指名を得ようとしたが、いずれも失敗に終わった。64・68年の選挙では、共和党内の穏健派である彼の立場が、保守派の強い反発を受けた。さらに62年の離婚と、18歳年下で離婚歴のあるマーガレッタ・“ハッピー”・マーフィーとの再婚が、大きなスキャンダルとなった。両者がそれぞれの配偶者を捨てて再婚したことに、国民の多くがショックを受けた。大統領候補に離婚歴のある人物を受け入れる土壌がまだなかった。70年代になると、ロックフェラーは政治的に右寄りの立場を強め、犯罪に対してより強硬な姿勢を取るようになった。71年に起きたアッティカ刑務所暴動の鎮圧では、米国刑務所史上最多の死者を出す結果となり、大きな批判を招いた。
ネルソンは、政治家としての務めをこなす日々の中で、政府の膨大な文書を読み終えると、美術カタログを眺めて安らぎを得た。ディスレクシア(読字障害)の影響から、言語によらない感覚を刺激してくれる芸術に強く惹かれた。彼はアフリカ、オセアニア、プレ・コロンビア時代(コロンブス以前、つまりヨーロッパによる植民地化以前のアメリカ大陸の芸術)の膨大なコレクションを蒐集した(彼の関心は現代のヨーロッパやアメリカの芸術にも及んでいた)。そのコレクションを寄贈する提案を、当時メトロポリタン美術館の館長(1932–1939)だったハーバート・ユースティス・ウィンロックに申し出た。1906〜31年にかけてエジプト発掘に関わっていたエジプト学者のウィンロックは、プレ・コロンビア美術コレクションが自らのエジプト部門の予算を脅かすライバルと考え、申し出を断った。代わりに自然史博物館を勧めたが、ネルソンは自分のコレクションは「科学資料」ではなく「芸術作品」として扱われるべきだと信じていた。
1954年、彼はニューヨーク・西54丁目15番地に「プリミティブ・アート美術館(当初は先住民美術館)」を設立した。幼少期を過ごした自宅(10番地)の隣で、近代美術館(MoMA)の向かいにあった。1950〜60年代を通じて、ネルソンは、非西洋芸術・伝統の包括的な美術品を収集した。69年、フランスの美術史家アンドレ・マルローは『プリミティブ・アートの傑作:ネルソン・A・ロックフェラー・コレクション』の序文で「これまでで最も重要なコレクション」と称えた。
1967年、ロックフェラーはトーマス・ホーヴィング(メット館長 1967–79)と合意し、プリミティブ・アート美術館の収蔵品、スタッフ、図書館をメットに移管し、1,400点の作品を寄贈した。69年には、美術館の理事会がネルソンの息子マイケルC.ロックフェラーを記念する新ウィングの建設を決定。79年ネルソンの死後、残りのコレクションも遺贈され、総数3,300点を超えた。息子の思い出に捧げられたこのウィングは82年に開館したが、ネルソンはその完成を見ることなく亡くなった。25歳の女性スタッフのアパートで心臓発作を起こし亡くなったため、彼の死はスキャンダラスに報じられた。
(参考文献:リチャード・ノートン・スミス著『オン・ヒズ・オウン・タームズ — ネルソン・ロックフェラーの生涯』2014年)


文/中里 スミ(なかざと・すみ)
アクセサリー・アーティスト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴38年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。
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