摩天楼クリニック「ただいま診察中」(連載27) 心の病気 【10回シリーズ、その4】うつ病(上)

うつ病(上)
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大山栄作 Eisaku Oyama, M.D.
ニューヨーク州立マンハッタン精神病センター精神科医。安心メディカル・ヘルス・ケア心療内科医。1993年東京慈恵医科大学卒業。2012年マウントサイナイ医科大学卒業。米国精神医学協会(APA)会員。日本精神神経学会会員。日米で10年以上の臨床経験をもつ。

日本でも米国でも心の病気の中で一番よく耳にするのがうつ病(depression)だ。芸能人が過労で「うつ」になって自殺したとか、年老いた母親が突然「うつ」を発症して何も食べなくなった…あるいは友人が「うつ」で休職中、といった話は日常的に飛び込んでくる。ちょっとした不安や倦怠感までも「プチうつ」と称して病気扱いする風潮すらある。一体「うつ」とはどのような病気なのか? どのような治療が必要なのか? どうしたら予防できるのか? マンハッタン精神病センターと安心メディカルで精神病の治療に当たる大山栄作医師(心療内科)に臨床現場から見たうつ病の実態について聞いた。

Q現代用語の1つとして氾濫している感がある「うつ」ですが、うつ病の原因はどのようなところにあるのでしょうか?
Aいきなり難しい質問ですね。うつ病の原因はさまざまです。僕の考えでは、うつ病というのは、いくつかの病気が相互に関与する「症候群」で、実際は気分の落ち込みや精神的ショックだけからうつになる人は比較的少ないです。むしろ、腰痛やけがで体の動きが不自由になったり、病気でベッドから起きられなくなったことがきっかけでうつになることも多い。職場や学校でのいじめや差別がうつを招くこともあります。

Q単に暗い気分になることがうつ病の本質ではないと?
Aはい。気分だけの問題ではなくて、実は人間の脳内の機能が落ちてしまった状態なんです。おもちゃのロボットに例えるならば、電池が切れそうになっていて、手足がうまく作動しなくなっているのと同じ。それが本当の、うつ。うつの本質です。電池でいうと電流に当たるものが、セロトニンやドーパミン、アドレナリンといった脳内の神経伝達物質で、それらが不足して体が正常に動かなくなっている。あるいは、本来脳内物質にあった抗うつ機能が失われている状態。僕はそのようにうつ病をイメージしています。

Q漠然とした体や気持ちの不調と「本当の」うつとの境界線はどこにあるのですか?また、診断の決め手は?
Aうつ病は、適応障害や境界型人格障害と見誤りやすく非常に診断が難しい病気です、うかつにうつ病と診断して間違った治療を施されると取り返しのつかないことになります。米国では、うつ病診断には米国精神医学会が作ったDSM Vという診断基準を使います。DSMとは「Diagnostics and Statistical Manual of Mental Disorders」の略称で、日本語にすると「精神障害の診断と統計マニュアル」。1952年に初版が発行されて以来、何回か再販されているのですが、僕らが今、準拠しているのは2013年発行の第5版です。この本には400種類近い精神障害が分類されています。その中からうつ病と特定して診断をつけるのは至難の技で、一般読者には安易に紹介できないのですが、その診断の過程で僕ら現場医師が日常的に使う判断基準にR-I-G-F-A-S-T(リグファスト)があります。

Qリグファスト? 耳ざわりのよい略語ですね。
Aはい。うつ病の危険信号とされる7項目の英語名の頭文字をつなげたチェックリストで、このうち5つが2週間以上続くと、うつ病と診断されます。7項目とは、R(Repressed Mood気分の落ち込み)、I(Insomnia不眠症)、G(Guilty罪悪感)、F(Fatigue倦怠感)、A(Appetite Loss食欲喪失)、S(Suicide Wish自殺衝動)、 T(Thought Blocking思考停止)です。

Qとても分かりやすい。大きく書いて机の前に貼っておきたいくらいです。この中で一番顕著なシグナルは何ですか?
AIの不眠症でしょう。実はうつ病の正体はかなり分かってきていて、脳内物質の1つセロトニンの分泌が少なくなるとうつ症状が悪化することまでは確実といわれています。

Qセロトニンとはどのような物質なのですか?
Aセロトニンは、必須アミノ酸のトリプトファンから作られる物質で人体ではその2%ぐらいが脳内にあり、神経伝達物質として働きます。具体的には、生体リズム、神経内分泌、睡眠、体温などを調節する機能があります。また、心理的には不安や攻撃性、衝動性とも関わりが深く、精神を安定させる働きもあります。

Qそのセロトニンが睡眠と密接に関連するのですね?
Aその通りです。睡眠には、レム睡眠とノンレム睡眠の2種類があります。前者は浅い眠りで、脳の活動は活発で夢を見る眠り。後者は深い眠りで、脳温も下がり脳の活動が休止する眠り。夢を見ない眠りです。人間は、睡眠中に両者を交互に繰り返すわけですが、セロトニンなどの神経伝達物質は脳が完全に休んでいるノンレム睡眠中に出ます。したがって、睡眠時間が減り、特にノンレムの時間が減ると、脳内物質の分泌量が下がり、ひいては抗うつ機能や抗不安機能が低下して、うつに至るというわけです。

Qうつ発症の大きな原因が睡眠不足にあるというわけですね。ニューヨークで生活している日本人の中には14時間時差のある日本とのビジネスに携わる人も多く、とかく時間外労働や残業が増え睡眠不足に陥る傾向があります。先生が安心メディカルで診療されている患者さんの中にも、睡眠障害からうつになった人はいますか?
Aはい。多いですね。時差のある中での勤務は非常なストレスです。米国は国内でもタイムゾーンがたくさんあるので国内出張時にも時差による睡眠不足が生じます。僕の患者さんで、誰もが知っている世界一の証券会社に勤務するエリート日本人女性がいたのですが、この人の場合も大変でした。クリニックにやってきたときには、ボロ雑巾のように疲れ切って、俯いたまま一言も喋らない。服は一流ブランドなのに、髪はボサボサ。やっと上げた顔を見ると、何とお化粧がチグハグで口紅は半分しか引いていない。「先生、大丈夫ですかね。あの人自殺するんじゃないでしょうか?」と心配げに耳元で囁く看護師の言葉に突き動かされて、僕は必死に問診しました。
 どうやら西海岸の大型プロジェクトに配属されたようで毎週ロサンゼルス出張がある。それも木曜の夜行便で西へ飛び、金曜は朝から丸1日打ち合わせ。明けて土曜の朝便で東に飛んで、ニューヨークには午後遅く到着。翌日曜日は報告書作成で1日潰れ、週末の休養はゼロ。月曜日には朝一の出張報告会議を皮切りにまた激しいニューヨークのビジネス戦線…そんな激務の繰り返しでほとんど寝ていないのです。3時間時差のせいで彼女の体内時計は完全に狂っていました。生理も止まっていました。

Qそんな重症のうつ病から彼女は立ち直ったのでしょうか?
Aはい、幸運にも。

大山先生がどのような治療をしたのか?続きは次週に。