アートのパワー 第40回 『J. T. Sata: Immigrant Modernist(J.T.サタ:移民のモダニスト)』(下)(ロサンゼルス全米日系人博物館 Japanese American National Museum, LAにて9月1日まで)

J. T. サタは1931年にサンフランシスコ生まれ帰米2世のヨシエ・セキと結婚した。翌1932年、自動車事故にあい、生涯足を引きずる負傷を負った。1933 年には一人息子のフランクが生まれ、ルーズベルトがその年大統領になったのでフランクリンと名付けた(後にルーズベルト大統領が日系アメリカ人の強制収容につながった大統領令に署名したことを鑑みると皮肉な話である)。サタは1931年にカリフォルニア日本カメラ・ピクトリアリスト (JCPC)を休会。その数年後、復帰し、再びカメラを手にフランクの写真を撮った。鹿児島出身のサタは九州男児で、九州男児といえば男尊女卑で知られるが、サタが撮影したフランクの写真は溺愛する父親の愛情が溢れている。1932年のロサンゼルス・オリンピックでは、日本の佐藤次郎がスター選手だったテニス・トーナメントの写真撮影を依頼された。
大恐慌、そして真珠湾攻撃を経て芸術活動が大きく衰弱する中、1942年大統領令 9066号が発令され、西海岸に住む12万人の日本人/日系2世(当時90%は西海岸にいた)は、全米10カ所に設置された人跡未踏の収容所に移送された。サタ一家はミシシッピ・デルタの湿地帯にあったアーカンソー州ジェローム収容所に送られた。1944年ここが閉鎖されると、アリゾナ州ヒラ川インディアン保留地の乾燥した砂漠の中にある収容所に送られた。カメラやラジオなどが禁制品だっため、多くの写真家が作品もカメラも破棄、破壊したが、サタは、日本人に同情的な白人家族の元に作品とカメラを入れたトランク1つを預けることができた。
戦後、サタ一家は最終的に帰る家も仕事もなく、各地を転々とした。1947年サタはパサデナにあるエリート女子高ウェストリッジスクールで、住み込みの管理人の仕事に就くことができた。学校関係の写真を撮ることはあったが、アート写真を撮影することはなかった。しかし、学校側は J. T. Sataがrecognized art photographerであったことを認めていた。サタは、母キノから学んだ生き方、「子供のために」家族を養うことを優先する生き方を選んだ。1962年退職した年、初めて帰国した。妻のヨシエは夫の死後も、日本の親戚に家族の近況を知らせる達筆な直筆の手紙を送った。この交流は、文通、親類縁者が日米間を訪問し合うことによって次世代へと引き継がれていった。フランクは父親の作品を保管しながら作品を扱ってくれる画廊を探したが関心を得られなかった。今回のJANMでの展示会は、フランクが個展を開催することを条件に寄贈したことに由来する。JANMが収蔵した
J. T. サタの作品は、一人の作家の所蔵点数で最多である。息子の長年の努力の賜物である。
同じくJCPCのメンバーであったトーヨー・ミヤタケ(宮武東洋1895-1979)は、戦後も商業写真家としてリトル東京の日系コミュニティを撮影し続けた。「ある日……宮武東洋と出会い……『あなたのお父さんは違っていた』と言われた。父は人生と芸術に対するアプローチにおいて、とても特異で独立した人だったと思います」とフランクは語った。
サタの縁者間の日米交流は、彼の異母大姪である竹田あけみ(J.T.サタはあけみの異母大叔父であり、祖母の異母弟にあたる)がニューヨークに来ることを決めたときに新たな展開を見せた。あけみは、神奈川県出身 (b 1951)、和光大学芸術学科卒業。ニューヨークのアートシーンに魅了され、1976年、Pratt School of Designで学ぶためにニューヨークへ移住し、以来マンハッタンに住んでいる。シングルマザーとして2人の息子を育てながら、テキスタイル・デザイナーの職を勤めた後、現在はアート・キャリアを順調に築いている。彼女のホームページは <akemitakeda.com>。
JANMの他、日系博物館はオレゴン州ポートランドとカルフォルニア州サンホゼにある。第二次世界大戦中に設置された収容所跡地かその近辺には国立公園局National Parks Serviceの国家歴史登録財National Register of Historical Placesに指定された博物館がある。JANMは改築工事のため今年末に閉館、2026に再開を予定している。

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文/ 中里 スミ(なかざと・すみ)
アクセアサリー・アーティト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴37年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。
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