『杉浦邦恵:Something Else』チェルシーのアリソン・ブラッドリー・プロジェクツ(526 West 26th St, Suite 814)にて 6月28日まで
『杉浦邦恵:フォトペインェング』アメリカで初めての大規模個展、サンフランシスコ近代美術館にて9月14日まで

フォトエマルジョン、アクリル/カンヴァス、180 × 257.2 cm;Meshes(メッシュズ), 1997年 フォトグラム、ゼラチン・シルバー・プリント100.3 × 76.2 cm; Filaments C(フィラメント C)、1999年フォトグラム、ゼラチン・シルバー・プリント100.3 × 74.3 cm。 提供:ダリオ・ラサーニ
杉浦邦恵は、1963年に20歳で渡米、シカゴ美術館附属美術大学(SAIC)で学んだ。1967年以降はニューヨークに拠点を置き、60年にわたり写真と絵画の多面的な探究を融合させ独自の表現を築いてきた。82歳を迎える今年、彼女の初となるアメリカでの大規模な個展『杉浦邦恵: フォトペインティング』がサンフランシスコ近代美術館で開催され、ニューヨークでも同時に『杉浦邦恵: Something Else』がチェルシーのギャラリーで開催されている。
杉浦は1942年、名古屋市に生まれた。1944年、アメリカ軍による弾薬工場の爆撃で父親を亡くし、母親は東京で仕事を探すため、娘を静岡の祖母の元に「疎開」させ、安全で食料も確保できる環境においた。小学校入学時に東京にいた母親と叔母と一緒に暮らすようになり、女所帯で育った。
杉浦の母は紳士服の仕立てをし、戦後立川のPX(Post Exchange=駐屯地売店)で商品を販売した。PXは軍人とその家族向けに物資やサービスを提供する施設で、戦後日本の物資が乏しい中、PXへのアクセスは貴重だった。母は英語を学び、PXのスーパーバイザーとして働いた。母の友人のアメリカ人と接する中で、杉浦は「敵」として洗脳されてきたアメリカ人が、個々人ではとてもいい人たちであることに気づき、いつかアメリカに行って勉強したいと思うようになった。
杉浦の祖母は日本の伝統的な髪結い職人で、女性が自立するには手に職を持つことが重要だと考えていた。杉浦はアートが好きだったが、女性は医師や弁護士になるために大学に行くべきだと思い、お茶の水女子大学の物理学科に進学した。しかし、理系の学位を取っても高校教師か、場合によっては小学校教師にしかなれないことを悟ってしまった。ちょうどその頃2人の女性に出会ったことが、彼女の人生の転機となった。ひとりは東京藝術大学に通う高校時代の同級生で、美大に行きたいならデッサン力がないと受からないと注意された。もうひとりはミルウォーキーの大学でデザインを学んだ近所の女性で、アメリカで良い美術教育を受けられたことを話し、シカゴ美術館附属美術大学(SAIC)への進学を勧めてくれた。
1963年、SAICへの入学が決まった杉浦は、大学を休学して単身アメリカへ渡った。留学生として奨学金を受け、家族も闇市でドルを調達し、現金を送って支援した(当時の為替レートは1ドル=360円)。学校が紹介してくれたアルバイトのおかげで生活が安定してからは、日本からの送金はあまり必要なくなった。

68.6 × 213.4 cm。提供:アーティストおよびアリソン・ブラッドリー・プロジェクツ
SAICでの6週間の基礎コースの一つに写真があった。そこでフォトグラム(カメラやレンズを使わずに、光と影の明暗の差で像を表現する)や針穴写真機といった、カメラやレンズを使わない写真技術を学び、杉浦は写真に自分の表現の可能性を見出した。デッサン力を必要としない表現手段を見つけたのだった。当時、写真は絵画や彫刻ほど重要視されてなく、芸術写真(ファインアート写真)を専攻した学生は杉浦だけだった。そのため、ケネス・ジョセフソン(コンセプチュアル・フォトの先駆者)やフランク・バルソッティといった指導教官たちから大いに目をかけてもらうことができた。彼らはモホリ=ナジ・ラースロー(Moholy-Nagy Laszlo 1895–1946、ハンガリー出身の画家・写真家で、シカゴのニュー・バウハウスの創設者・教授)に連なる教育活動に従事し、産業・テクノロジーと芸術の融合を推進し、絵画、ドローイング、写真、コラージュにおいて「徹底的に実験的(relentlessly experimental)」であることを重視していた。
ジョセフソンは杉浦にフォトジャーナリストの道を勧めたが、内気な彼女には無理だった。ジョセフソンがフルブライト奨学金を得てストックホルムに滞在中、カラー写真に取り組み始めていたバルソッティが、杉浦にカラー現像技術を教えた。物理学を専攻し研究室での作業に慣れていた杉浦は、複雑な技術を短期間で習得した。芸術写真の主流がまだ白黒だった時代のことである。
そして現代芸術との出会いが、杉浦に進む道を示してくれた。渡米前に池袋西武百貨店の美術館で日本初のパウル・クレー展覧会に行くなど近代美術には親しんでいた。しかし、アメリカ現代美術に触れたのは、SAICに入ってからのことだった。SAICの講師たちが、シカゴ美術館に隣接する学校の利点を活かし、生徒たちを美術館に連れて行った。そこで杉浦はアメリカ現代美術の作品を見て、自分はニューヨーク抽象表現主義の作品を好み、理解できると思っていた。ところが、アンディ・ウォーホルの作品を初めて見たときは、「すごい、馬鹿みたい」と思った。
参考資料:「杉浦邦恵オーラル・ヒストリー」富井玲子と池上裕子によるインタヴュー、 2008年9月15日 、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ(URL: oralarthistory.org);ロバート・パロンボーのヴィデオ「 杉浦邦恵」、サンフランシスコ近代美術館サイト
文/中里 スミ(なかざと・すみ)
アクセサリー・アーティスト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴38年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。
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