夫の海外赴任に帯同してニューヨークで暮らし始めたものの、こんなはずじゃなかった、と感じることがある。
子どもの送迎や家事だけで気づけば一日が終わる。友人と出かけても楽しめず、どこか孤独。英語をもっと話したいのに、店員やアパートの管理人との会話さえうまくいかない。そして何よりも、「日本に戻った後、自分はどうなるんだろう」という不安。これは、実際にキャリアを中断して帯同した多くの「海外帯同者(主に駐在員の妻、以下駐妻)」が感じている現実だ。
しかし、海外生活は本当に“空白”なのだろうか。
ジェトロ・ニューヨーク事務所の内野泰明さんに「駐妻のキャリア」について話を聞く機会を得たところ、海外生活を「空白」ではなく「チャンス」に変えている人たちの存在が見えてきた。

“人材の宝庫”が、生かされていない
ニューヨークの駐妻の多くは、日本で専門職や総合職としてキャリアを築いてきた優秀な人材だ。だからこそ、帯同によって働く機会が失われると、「キャリア中断」という問題に直面する。これによる精神的な影響は想像以上に大きい。日本では仕事を通じて確立されていた自分のアイデンティティーが、急に「妻」「母」という役割だけになったように感じる。社会との接点が減ると、「日本に戻ったらどうなるんだろう」という思いが頭をよぎるようになる。
この状態には、2つの側面がある。一つは「キャリアが中断されるかもしれない」という不安。もう一つは、「社会との接点が減ることによる孤立」だ。この2つは別々の問題のようでいて、実際には密接につながっている。
内野さんは、その背景についてこう話す。「元の仕事に戻れるかもしれない。でも、戻れるかどうかは分からない。この”不安”が、一番大きいと思います」
日本政府は「女性版骨太の方針」において、女性の経済的自立やキャリア中断の防止、国際分野での活躍促進を重点目標に掲げている。その観点から見ても、ニューヨークの駐妻は”人材の宝庫”でありながら、十分に生かされていない存在だといえる。
ジェトロに駐妻が多いワケ
ジェトロのニューヨークオフィスには、約60人のスタッフがいる。そのうち約20人が派遣職員として勤務しており、その約半数が駐妻だという。1年更新という契約形態が、滞在期間が限られる人にとって入りやすい仕組みになっている。
「長く働いてほしい企業が多い中で、短期間の募集って本当に少ないんですよね。だからこそ1年更新という形が、数年後には帰国する必要がある方にとってはありがたいと言っていただけることが多いです」
業務は、出張手配や外部調整、イベント運営など多岐にわたる。高度な英語力や業界経験がなくても活躍できる例も多い。業務経験やスキルも重要だが、働く姿勢も重要だと内野さんは言う。
「どんな仕事も前向きに取り組める人が、結果的にすごく活躍しています。日本とアメリカの架け橋という弊所の役割に共感して応募してくださる方は、モチベーションが高い。それは組織にとっても大きな力になります」
柔軟な働き方で「続けられる環境」に
ジェトロの基本勤務はフルタイム(午前9時〜午後5時、休憩1時間)。その上で、週3日出社・週2日リモート、時差出勤など、家庭事情に合わせた調整が可能だ。「子どもが急に熱を出した」「夏休みは一時帰国で日本に」などといった事情にも柔軟に対応してもらえる。
また、パートタイムで週20時間程度のポジションを募集したこともあるという。「想像以上に多くの応募があって驚きました」と内野さん。子どもの学校時間に合わせて働きたいというニーズが、それだけ多かったということだ。派遣職員は基本的に1年更新のため、滞在期間が限られる駐在帯同者にとって「一定期間だけ働ける」という仕組み自体が、チャレンジしやすい環境になっているようだ。
「長く働けないから応募できない、というよりも、”1年単位で区切られているからこそ挑戦しやすい”という面はあると思います」
加えて、職種によってはボストンやフィラデルフィアなど近隣都市への出張の機会もある。「同僚と一緒に出張できる機会があると、さらに仕事を頑張ろうという意欲につながる人が多いですね」
“働きやすさ”だけではなく、限られた期間の中でも実務経験を積み、やりがいを感じながら働ける場になっている点が興味深い。

仕事は”孤独”を救うきかっけに
駐在生活で見落とされがちな問題がある。それは「駐妻の孤独」だ。
社会との接点が細り、誰とも話さない日が続く。子どもの送り迎えと家事だけで一日が終わる。「家」と「学校」の往復だけになると、メンタルにじわじわと影響が出ることがある。駐妻の孤独は、キャリアの問題と同じくらい、あるいはそれ以上に深刻だ。
この状況を変える方法は一つではない。ボランティアでも、習い事でも、学び直しでもいい。社会とつながる手段はいくつもある。その中の一つとして、「仕事」という選択肢がある。
「仕事を通じて家庭でも子どものコミュニティーでもない場所ができる。それってメンタル的にすごく大きいと思うんですよ」
ジェトロのオフィスは大部屋で、部署の垣根を超えて自然に交流できる。ランチを共にする仲間の存在が、孤立しがちな海外生活の支えになっているという声は多い。加えて妻が充実した生活を送っていれば、それは家庭全体に波及する。ジェトロで働いた駐妻の夫からこんなコメントが届いた。
「妻が仕事を持つことで、駐妻としての生活が単なる帯同期間ではなく、妻自身の生活を楽しむ要素の一つになったと感じています。ジェトロでの業務を通じて日本では触れてこなかったビジネスに触れたことで、夫婦の日常会話の中身も変わりました。孤立しがちな海外生活の中でオンオフともに接する仲間ができたことも精神的な支えになっていたのではと感じますし、私自身もより安心して業務に取り組むことができました」
帯同家族の活躍支援は、日本企業の海外展開を支える”表には見えにくい基盤”でもある。
帰国後に「強み」になる経験
駐在期間は、キャリアの”空白”ではない。どう過ごすかで、その後の選択肢は大きく変わる。実際にジェトロで働き、帰国後に再就職を果たした女性は、こう振り返る。
「キャリア中断という観点では、帰国後は派遣社員やパートとして働いているケースが多いことを知り、不安を感じていました。その一方で、ジェトロのニューヨーク事務所での海外就業経験は、自分にとって大きな自信につながりました。帰国後の就職活動もスムーズに進み、結果として金融会社の総合職として再就職することができました。現在の業務でも、投資判断の際に世界各国の企業レポートを読み込む中で、ジェトロでの経験がそのまま生きていると感じています。海外企業の調査・分析経験が、今の仕事においても確かな強みになっています」
キャリアは空白期間として途切れるのではない。駐在期間で得た経験は、その後のキャリアに”強み”として確実に生きていく。
キャリア中断を転換点に
ボランティア、学び直し、資格取得、仕事——選択肢はそれぞれあっていい。大切なのは「海外で過ごす期間をどう使うか」を自分で選べる環境があることだ。
内野さんは、こう語る。
「何か一つでも経験を積んで帰ることが、次につながると思います。それが仕事でなくても。でも、選択肢として仕事があることは伝えていきたいですね」
駐在期間は、”空白”ではない。むしろ、自分のキャリアや生き方を見つめ直し、新しい経験を積むことができる時間でもある。
◆ ジェトロ・ニューヨーク事務所 内野泰明
2004年、経済産業省入省。2023年7月からジェトロ・ニューヨーク事務所出向。ジェトロ・ドバイ事務所、在イラク日本国大使館に続き、今回が3回目の駐在。
取材・文/藤原ミナ
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