「文化的遺伝子で日米の研究者・学生をつなぎたい」
慶應義塾NY学院トライカルチャー教育研究所発足に寄せて

慶應義塾ニューヨーク学院第10代学院長、慶應義塾大学文学部名誉教授。アメリカ文学思想史・批評理論専攻。日本英文学会監事、アメリカ学会理事、日本アメリカ文学会第16代会長を歴任。 上智大学卒業。コーネル大学大学院博士課程修了。 2009年から北米学術誌The Journal of Transnational American Studies 編集委員。著書に「ニュー・アメリカニズム」(青土社、1995年度福澤賞:増補新版 2005年)、「Full Metal Apache: Transactions between Cyberpunk Japan and Avant-Pop America」(Durham: Duke UP, 2006)など多数。東京都出身。
慶應義塾ニューヨーク学院は2022年から、日・米・慶應の三つの文化を尊重する「トライカルチャー」をミッションとして明文化し、オムニバスの連続講演シリーズなどの取り組みを重ねてきた。創設36周年となる今年6月、慶應義塾理事会はその拠点となるトライカルチャー教育研究所の設立を承認。発起人である慶應義塾大学名誉教授で慶應義塾ニューヨーク学院第10代学院長の巽 孝之さんに設立の経緯や目的を聞いた。(聞き手: 本紙)
設置に至る経緯と背景は?
私は2021年3月に慶應義塾大学を定年退職し、同年4月から名誉教授になりました。翌5月に、当時就任したばかりの伊藤公平新塾長から慶應義塾ニューヨーク学院(以下、学院)の第十代学院長職を打診されました。直接の理由は、ほぼ全寮制だというのに(新型コロナウイルス感染症のパンデミックのため)授業ばかりか卒業式や入学式もズームにせざるを得ず「慶應スピリットが忘れられているのではないか」という懸念があったからです。
一方、私自身は、文学部英米文学専攻でアメリカ文学と文化を講じている頃から、北米在住の日本文学研究者の訪問を受けることが多く、いずれは日本のアメリカ文学研究者と北米の日本文学研究者が交差する環太平洋的な学際空間を創ることができたら建設的ではないか、と痛感していました。そこへ慶應義塾の常任理事会提案による「トライカルチャー」というキーコンセプトが唱えられるようになって、私自身の環太平洋的学際構想とも自然に融合したため、22年の学院長着任直後に新たな学院の理念としてミッションステートメントを更新したのです。

同年の10月からは、このコンセプトに基づいてオムニバスの連続講演シリーズを開始し、アイビーリーグの学者・研究者をはじめピュリッツァー賞作家、劇作家、オペラ歌手、英語落語家、出版社社長に至るまで、4年間で28人ものスピーカーを迎えました。おかげさまで大変濃い内容となり、来春には早川書房で書籍化する予定です。このような経緯を経て、研究所設立の機運が高まり、正式に規約を制定して、今回の発足につながりました。
巽さんが1996年、学院を初めて訪問された際、第二代学院長の杉浦章介さんから「アカデミー」という英語名には将来の研究拠点構想が込められていると聞かされたこと、そしてそれが学院長就任の理由の一つだったそうですね。約30年越しの構想実現に、どのような感慨をお持ちですか?
フルブライト留学生としてコーネル大学大学院に学んだ1984年以来、北米におけるアメリカ文学の研究の層の厚さは実感していましたから、文学部説明会のために96年3月に学院を初訪問した時には、将来こういう場所で研究に専念できたらいいだろうなぁ、とぼんやり思ったものです。
日本の大学では、北米の大学のような在外研究のための研究休暇(サバティカル)が必ずしも保証されていませんから。そう思っていたら15年ほど前から、文科省の方針により1学期15週間の授業が義務付けられて、大学教授の個人研究の時間はどんどん減少し、研究環境は弱体化するばかり。にもかかわらず、国際的存在感のある研究を発表せよとお上からの圧力はどんどん増大するばかりですからね。そんなときに、かつて杉浦第二代学院長から「アカデミー」には高等部のみならず研究拠点構想も込められていると聞いたことが思い出され、いささか楽観的に第十代学院長を引き受けました。
(学院は)充実した図書室と優秀なスタッフに恵まれていますから、既に慶應義塾の一貫校に属する教職員が、学院に短期滞在して研修し、成果を上げています。それをさらに円滑化し、この機会を内外に広く開放するために、私の代で長年の研究拠点構想の第一歩を正式に踏み出すことが可能となり、感無量という他ありません。

人間形成に大きな影響を与える思春期を学院で過ごす生徒にとって、北米の日本文学研究者と日本のアメリカ文学研究者が学院で交流する教育的意義は?また、高校附属の研究所という形態は、日米でも珍しいですよね。
1980年代に私が留学していた頃は、日本におけるアメリカ文学研究はまだまだ翻訳が主流で、国際的な発信をする学者や研究者は少数でした。私自身も当時北米で勃興していた批評理論を自家薬籠中のものとして博士号請求論文を書き上げるのが主眼だったのです。ところが時をほぼ同じくして79年に、アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーとなりそれ以降、経済的には日本がアメリカのような大国を脅かす存在となり、文学や芸術などソフトパワーの英訳もぼちぼち始まっていました。
あれは80年代半ばだったか、フィラデルフィアでSF文学のフェスティバルに参加していた時、日本のアニメのコスプレをした青年が仲間と日本のマンガの英訳に精を出していると聞いて驚いたことがあります。ところが21世紀の今では、マンガを足がかりに日本語と日本文学に精通した挙句、日本人でも読解が難しい泉鏡花を主題にハーバード大学で博士号請求論文を仕上げるアメリカ人もいる。日本のアメリカ文学研究者でも現在、北米に提出した学位論文を基に英語単著を出版する若手や中堅が増えていますから、そんな時代に日米のアメリカ文学研究と日本文学研究が交差する言説空間を学院内部で演出できたら、そうした空間自体が10代後半の生徒たちを大いに啓発するのではないかと考えました。
学院では日本で育った日本語派と海外生活の長い英語派の生徒が学んでいますが、日米が交差する講演シリーズはそのどちらにとっても刺激的だと感じています。日本語派は、自分以上に日本の文化を熟知しているアメリカ人研究者に衝撃を受けるでしょうし、英語派は、英米人以上に英米の文化に精通した日本人研究者から多くを学ぶでしょう。実際、4年間続けた講演シリーズのレセプションでは、講師(スピーカー)と生徒が積極的かつ創造的に質疑応答する光景を目の当たりにし、うれしい驚きの連続でした。
アメリカは建国250年を迎えました。独立宣言を日本で初めて翻訳したのは福澤諭吉で、1867年には福澤自らニューヨークを訪れています。そのニューヨークで「福澤精神」を掲げる研究所が誕生するわけですね。
私は19世紀ロマン派文学を専攻してきたので、学院に近いタリータウンにある文豪ワシントン・アーヴィングの邸宅兼博物館サニーサイドは、何度訪れても飽きません。アーヴィングといえばジョニー・デップ主演で映画にもなった「スリーピーホロウの伝説」が有名ですが、彼の「ニューヨーク史」を読むと、そもそもニューヨークとは、ネイティブアメリカン(アメリカ先住民)から入植オランダ人が土地を買い取り、その後、イギリス軍に制圧されていった多層的な歴史の上に成立していることがよく分かります。
アメリカ独立というと、イギリスとアメリカの戦争の結果のように思われますが、実はそれ以前にイギリスとオランダの闘争があったことを忘れるわけにはいきません。ウォール街の「ウォール」だって、元々は入植オランダ人がイギリス軍の侵入を抑えるために建設した防壁を意味したのですから。そして福澤先生といえば、なんといってもオランダ系の医学、いわゆる蘭学を習得するところから学問を始め、以後、時代の趨勢に合わせて英学に転向された方ですよね。
英学者になっても、戊辰戦争時にすら国家の分裂に怖気付くことなく平静心を保ち、ニューヨークで買い込んだフランシス・ウェーランドの経済書を講義し続けた学問への使命感は、現在の慶應スピリットの根本を成しています。ここで面白いのは、この時の福澤先生が慶應義塾を、鎖国時代にあっても唯一海外との窓であり続けた長崎のオランダ人居留区「出島」に例えていることです。ニューヨーク学院を私が一貫して「地上の楽園」と呼び続けてきたのは、単に受験地獄を免れているという理由だけでなく、国家がいかに迷走してもここだけは知的好奇心を失わない空間であり続けてほしいという願いを込めているからで、それは福澤先生の出島の思想に連なります。

新しく設立する研究所では、講演会やシンポジウムの開催、教材開発・研究成果の出版などを行なっていくそうですね。今後5~10年で、研究所をどのように育てていきたいですか?内外の福澤研究者や日米の研究者が滞在・研修できる「インターフェイス」構想についてもお聞かせください。
正直なところ、現在の研究所はまだバーチャルな存在にすぎませんが、たとえ名目上であっても、そこにこれまで既に実行してきたオムニバスの連続講演シリーズや出版活動を含めれば、学院の内外双方へ向けた組織としては、かなり分かりやすくなると考えました。一つ特徴的なのは、メンバーが所属するいくつかのカテゴリーがあるうちで、「ファカルティ」としては慶應義塾に何らかの形で属する専任の教職員を考えていますが、「フェロー」としては、連続講演シリーズにご出演いただいた講師も迎えたいし、ゆくゆくは学院の持つ潤沢な図書室蔵書を活用し得る内外の訪問研究員も歓迎したい。
あくまで個人的経験から言いますが、定年退職まで過去38年間、大学生と大学院生を教え、卒論、修論、博論全部合計して400本を指導してきましたけれども、過去4年間、学院生とブッククラブをやってきて発表させたりペーパーを書かせたりしたところ、その水準は大学のゼミ生にも引けを取りません。図書室ボランティアの生徒たちは、図書室蔵書の電子カタログ用データ入力や、オムニバスの講演シリーズを早川書房から単行本にまとめるためのテープ起こし、さらには翻訳の下訳まで、バイリンガル、バイカルチュラル能力をフル活用して巧みにこなしてくれています。また、時間的にも精神的にもそれらが可能となる環境に恵まれていのが、大学受験を必要としない学院独自のメリットだと思います。そこで、大学附属の組織であれば、院生かポスドク対象の準研究員ないしは研究助手に当たる「リサーチアソシエート」のカテゴリーを設け、(慶應義塾)ニューヨーク学院の生徒、すなわち高校生でも意欲次第でメンバーになれる道筋も開きました。
ニューヨーク三田会をはじめ全米の塾員が学院を頻繁に訪れ、北米における慶應義塾の拠点となっています。巽さんもニューヨーク日本歴史デジタル博物館の理事として「福澤諭吉とニューヨーク」展の企画にも携わっています。研究所として今後、学院の枠を超えて、現地の日系コミュニティーやアメリカの教育・文化機関とどのように関わっていこうとお考えですか?
これまで学院と外部組織とをつなぐのに、一つはオムニバスの連続講演シリーズがあり、もう一つには春のお花見を兼ねた文化祭「祥風祭」やオープンハウスがありました。そうした機会を通じてニューヨーク、ニュージャージー、コネティカット州の日系教育機関の方々との交流も続けています。それに加えて現在、ニューヨーク日本歴史デジタル博物館の活動が加わり、正直なところ現役の教授だった時以上に、福澤諭吉のことを考える機会が増えました。福澤先生がニューヨークを初訪問した1867年は実は、日本から初のアメリカ人留学生がニュージャージー州のラトガーズ大学で勉強を始めた時期にも重なっています。
個人のつながりのように見えるものの背後には、必ず共同体と共同体のつながりがあります。慶應義塾ニューヨーク学院トライカルチャー教育研究所は、日米間と日系人内部を問わず、そうしたつながりを立体化し充実させるためのインターフェイスになるかもしれません。いずれ100年先には、純粋に日本文化、慶應文化に興味を深めトライカルチャーを自明のものとする非日本人の生徒が増えることも夢ではないでしょう。それは、生物学的遺伝子ではなく文化的遺伝子によってのみつながり合うアメリカ合衆国の民主主義の理念に最もふさわしい人間像ではないでしょうか。
巽さんが1996年、ニューヨーク学院を初めて訪問された際、第二代学院長の杉浦章介さんから「アカデミー」という英語名には将来の研究拠点構想が込められていると聞かされたこと、そしてそれが学院長就任の理由の一つだったそうですね。約30年越しの構想実現に、どのような感慨をお持ちですか?
















