依田寿久(よだ・としひさ)は、この60年間ニューヨークを拠点に活動している日本の現代美術家である。2026年6月4日から8月7日まで、トライベッカ(キャナル・ストリートの1ブロック南)で移転オープンしたNowHereで、二部構成による個展が開催されている。依田さんと私は40年来の知り合いで、この重要な展覧会に際してインタビューを行うことができた。

アトリエでの依田寿久(photo: 長坂フミ、提供: NowHere)


依田は1940年、静岡市で5人兄弟の次男として生まれた。戦時中は父の長野県の米作農家で幼少期を過ごした。1953年、静岡市立城内中学校に入学。高校卒業後、美術大学受験のため東京へ上京し予備校に通い武蔵野美術大学に合格した。

依田によると、大学には現役の作家が教員として在籍していて、その一人が油絵学科主任の山口長男(1902–83)だった。山口は1927~31年までパリで学び、幾何学的な形態と厚塗り(インパスト)によるミニマルな作品で知られる。山口は戦後の日本美術界を代表する重要な存在であり、サンパウロ・ビエンナーレ(1955・63年)およびヴェネツィア・ビエンナーレ(1956・58年)の日本代表を務めた他、59年にはグッゲンハイム美術館の開館記念展にも作品が展示された。依田が尊敬していた他の作家には、鮮やかな色彩と反復する幾何学模様の版画で知られ、科学的デザインの先駆者でもあったオノサト・トシノブ(本名: 小野里 利信、1912–86)、そしてシュルレアリスムから出発し、後に日本抽象美術を代表する画家となった杉全直(1914–94)がいる。


依田寿久『Untitled #70-11』キャンバスにアクリル 48” x 72” 1970年 (提供: 依田寿久、依田順子・依田洋一朗、NowHere)

東京で学生生活を送る間、依田は美術館や百貨店で開催された展覧会をできる限り訪れた。それ以前にも、1955年秋に東京国立博物館で開催された画期的なメキシコ美術展を観るため、わざわざ東京まで足を運んだことを覚えている。もちろんディエゴ・リベラやフリーダ・カーロの作品も鑑賞したが、とりわけダビッド・アルファロ・シケイロスの作品に強い感銘を受けた。また、画廊巡りも盛んに行っていた。1960年代半ばには、現代美術を専門に扱う草分け的存在であった南画廊でジャスパー・ジョーンズの作品を目にした。その価格が720万円(当時約2万ドル、1ドル=360円)であると聞き、大きな衝撃を受けた。

さらに、毎日現代展では猪熊弦一郎(1902–93)、岡田謙三(1902–82)、川端実(1911–2001)らの作品を鑑賞した。1950年代から1960年代当時は現代美術専門の画廊がまだ少なく、京都の前衛芸術運動に刺激を受けた若い美術評論家たちが、新進作家の作品を見て回り、『毎日新聞』のコラムで評論を書いていた。彼らが「閻魔帳」と呼ぶ評価表をもとに、毎年末には招待制の展覧会が開催された。依田は1967年にニューヨークへ渡った後、この3人の画家と実際に出会うことになった。

依田寿久『Untitled #80-W1』キャンバスにアクリル  60” x 144” 1980年(提供: 依田寿久、依田順子・依田洋一朗、NowHere)

かつて、パリは世界中の若い芸術家たちの憧れの都だった。しかし1960年代前半から半ばにかけて、その中心は次第にニューヨークへと移り始めていた。依田は『読売新聞』の記事で、ブルックリン美術館附属美術学校(Brooklyn Museum Art School)が留学生ビザを発給し、日本人若手作家が留学していることを知り、ニューヨークで学ぶにはこれだと思った。大学卒業後、デザイン会社で働いて渡航資金を貯め、客船の乗船券と、当時海外へ持ち出せる現金の上限額である500ドル(当時1ドル=360円)を用意した。1966年、横浜港で多くの友人たちに見送られて出航した。この中には学生時代からの知り合いで、1969年に妻となる岸順子もいた。

ロサンゼルスまで2週間かかった。約8か月間庭師として働いた。その後、99ドルで購入した「99日間有効」のグレイハウンド・バス乗車券を手に、約1か月の旅の後、マンハッタンのポート・オーソリティ・バスターミナルに到着した。旅の途中、州ごとに大きく異なることに驚き、「なぜこの国が“合衆国”なのかがよく分かった」。ブルックリン美術館附属美術学校学生でビザ入手した。同校には一時期、河原温や荒川修作も在籍していた。

依田がニューヨークで最も驚いたことは、シュルレアリスム、カラー・フィールド・ペインティング、そしてキネティック・アートという異なる潮流が同時に存在し、共存していたことである。そして、自らの目で実際に見た作品の中で最も重要だったのは、ジャクソン・ポロックとパウル・クレーの絵画だった。ニューヨークで創作を志す芸術家にとって住居とスタジオを確保することは大きな挑戦である。依田と順子が住み制作していたソーホの元倉庫のロフトは居住用ではなく、実際違法で、暖房設備も十分でなかった。1972年に長男・洋一朗が誕生すると、乳児をその環境で育てることは不可能となり、東53丁目のアパートに移り、そこで約10年間暮らした。

依田夫妻は1969年頃からソーホーや市内を転々とした。当時、画廊街といえば57丁目やマディソン・アベニューだった。「ソーホーはあっという間に変わった」と依田は振り返る。420 West Broadwayにはレオ・キャステリ、イレアナ・ソナベント等、一流画廊が集まり、ニューヨーク現代美術の中心地となった。ワシントン・スクエア・パークで行われた草間彌生のボディ・ペインティング・パフォーマンスも目にしている。ソーホーの画廊時代は99年にレオ・キャステリが亡くなるまで続いた。

依田寿久『Untitled #01-14_2001』90” x 72” 2001年(提供:依田寿久、依田順子・依田洋一朗、NowHere)

NowHereの個展の前半には、依田がニューヨーク到着後まもなく制作した初期の作品も展示されている。オレンジ色と青色を基調とした作品群は、それまでは抽象絵画を制作したことはなかった。そのイメージは、日本からロサンゼルスへ向かう約2週間にわたる太平洋横断の船旅で、果てしなく広がる海、水平線、そして空を見つめ続けた体験から生まれたという。依田は、「オレンジは日本の色だ」と語る。私自身それは鳥居や漆器を思わせる色彩として映る。今回の個展の前半では、1980年代の作品も紹介されている。一見するとモノトーンの作品に見えるが、注意深く観察すると、質感のある画面に一色ずつ何層にも重ねられた筆致、その上に引かれた黒い線、さらに明るい色彩による短いストロークが積み重ねられていることが分かる。ジャクソン・ポロックやサイ・トゥオンブリーのオールオーバー・ペインティングが激しいエネルギーを放つのに対し、依田の画面はより静謐で内省的であり、鑑賞者を作品が持つ瞑想的で洗練された世界へと静かに誘う。依田は、自らの創作の源泉は自然であると説明する。私には、とりわけ大きな緑色の作品は、日本の稲作文化そのものを思わせる。一方、個展後半は2000年代以降の作品で、依田夫妻がコニーアイランドで見つけた蚊帳吊草(カヤツリグサ、Cyperus microiria)から着想を得たシリーズである。三角形の断面をもつ独特な茎の形状が、画面いっぱいに絡み合う三角形のネットワークという独創的な構成を展開していく。

編集部註:依田寿久展『Continuum, 1967 – Today』Part 1は終了、現在Part 2を開催中。

文/中里 スミ(なかざと・すみ)

アクセサリー・アーティスト。アメリカ生活50年、マンハッタン在住歴39年。東京生まれ、ウェストチェスター育ち。カーネギ・メロン大学美術部入学、英文学部卒業、ピッツバーグ大学大学院東洋学部。 業界を問わず同時通訳と翻訳。現代美術に強い関心をもつ。2012年ビーズ・アクセサリー・スタジオ、TOPPI(突飛)NYCを創立。人類とビーズの歴史は絵画よりも遥かに長い。素材、技術、文化、貿易等によって変化して来たビーズの表現の可能性に注目。ビーズ・アクセサリーの作品を独自の文法と語彙をもつ視覚的言語と思い制作している。