2025.01.29 REPORTS 教育レポート

Tricultural Voices from Keio Academy of New York #7

KANYブッククラブ報告: 2024秋
ーー安部公房『箱男』(1973)を読むーー
巽 孝之
(慶應義塾大学名誉教授/慶應義塾ニューヨーク学院長)

2022年 4月より、生徒たちの要望を受けて、ブッククラブを開始した。現代小説の英語だと易しすぎる、もっと歯応えがある文章を読みたいという。

そこで、さっそく私が専門とする  19世紀アメリカ作家ナサニエル・ホーソーン( Nathaniel Hawthorne)の代表作『緋文字』The Scarlet Letter (1850)を選んだ。 2023年 10月にはハーマン・メルヴィル(Herman Melville)の世界文学的古典『白鯨』Moby-Dick( 1851)を、2024年 2月からは長崎生まれの日系イギリス作家カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』 Never Let Me Go(2005)を取り上げた。

2024年 9月以降は、日本の小説も読みたいという希望が出たため、同年に生誕百周年を迎え、平成初期の逝去に至るまで長くノーベル文学賞常連候補でもあった安部公房(1924-1993)に狙いを定めた。『芸術新潮』 3月号や『現代思想』 11月増刊号では続々と作家特集が組まれ、神奈川近代文学館では10月 12日から 12月 8日まで「安部公房展―― 21世紀文学の基軸」を開催。 7月には鳥羽耕史による本格的な評伝『安部公房――消しゴムで書く』(ミネルヴァ書房)もお目見えした。しかも同年は、映画監督の石井岳龍が『箱男』(1973)を 30年近い歳月をかけて映画化した年にあたる。代表作『砂の女』( 1962)や『他人の顔』(1964)ならば極限状況下の主人公を中心とする物語が一応結構を保っているものの、『箱男』はそもそも誰が主人公なのかという問題を投げかける。安部文学はよくカフカやベケットにたとえられるようにモダニズムの反伝統的実験精神に貫かれているから、もともと不条理を得意とするが、とりわけ『箱男』の場合、視点人物がめまぐるしく移り変わり、語りそのものをめぐって多様な見解が噴出する。当初主人公に見える Aはすでに先行する箱男の影響を受けた男。脱ぎ捨てられた段ボール箱の元住人は B。箱男を脅かす偽医者は贋箱男の C。そして、本筋とは一見無縁なエピソードで主役の少年が D。これだけの視点人物が交錯するのだから多様な解釈が出るのも道理である。ブッククラブには絶好のテクストだと判断したゆえんだ。

本書の主人公はホームレスではない。 1990年代初頭にバブル景気が弾け、一気に蔓延した失業者たちが西新宿に作ったダンボール都市の住民では、ありえない。 1973年に登場した箱男は、れっきとした本職を持ちながらも、ある日突然段ボール箱をかぶってみたら、あたかも透明人間になったかのように、他者の生活を気ままに覗き見できる魅力に抗えなくなった存在だ。ローマ神話の月の女神ダイアナの水浴を覗き見た漁師になぞらえ「アクタイオン・コンプレックス」の物語と呼んでもよい。しかも箱男は増殖する。段ボール箱を脱ぐときには、人類から何か別のものへ脱皮しかねない。箱男とは、個人の水準を超えた種族の名称なのだ。 かくも奇妙奇天烈な存在に対して、嫌悪感のみならず親近感を覚えた生徒諸君もいたのは、興味深い限りである。以下、最も現代的な解読を堪能してほしい。

自由と孤独
宮﨑仁美(MIYAZAKI  Megumi, 12年)

安部公房の『箱男』は、非常に独特な視点と構造を持った作品であり、読む者に強烈な印象を与える。物語は、主人公が段ボール箱をかぶり「箱男」として生きる様子を描く。箱男は、社会との接点を絶つために段ボール箱という物理的な「壁」を自ら作り上げ、その中で孤独に生きようとする。しかし、その選択が果たして本当に自由をもたらすのか、それとも新たな孤独や束縛を生むのかというテーマが作品の核心となっている。

本作を読み進めるうちに、箱男が抱える「自由」と「孤独」の二重性が浮かび上がる。箱男は、社会のしがらみから解放されるために箱をかぶり、外界との接触を断ち切る。しかし、箱に閉じ込められた彼は、逆にその箱自体が新たな「閉じ込め」を生み出していることに気づく。彼の自由は、自己閉塞的でありながらも、同時に新たな抑圧を生むものとして描かれている。この点で、箱男は「自由」の概念に対する鋭い批判を含んでいる。

また、箱男は箱の中でノートをつけ続けることで、自己の存在を証明しようとするが、これは他者とのつながりを求める人間の根源的な欲求を示しているだろう。社会から完全に孤立しているわけではなく、彼は自分の存在を記録し続けることによって、少なくとも誰かにその存在を認めさせようと試みる。しかし、箱に閉じ込められたことで得られる「自由」は、決して完全ではなく、彼が求める「真の自由」には程遠い。箱男の行動は、現代社会における孤独と自由のパラドックスを象徴的に示している。

この作品を通して、私は現代社会における「自由」とは何か、そしてそれがどのようにして我々の生活に影響を与えているのかについて考えさせられた。箱男のように、私たちも社会のルールや役割に縛られ、無意識のうちに「箱」を作り出しているのではないか。たとえば、仕事、学校、家庭、さらにはSNSなどのオンライン社会も、我々が自ら作り上げた「箱」の一部である。これらの箱に閉じ込められることが、一時的な安心感をもたらすことはあるものの、それはまったく同時に、自由を奪われることにもつながっている。

『箱男』の最大のテーマは、社会といかなる関係を結ぶかという問いかけ、特に「自由」と「孤独」に対する深い問いかけである。箱男の存在そのものが、現代人の孤独や社会的な圧力を象徴していると感じた。彼は一見して極端な状況にいるように見えるが、実際には多くの人々が無意識のうちに同じような箱に閉じ込められているのではないだろうか。箱男が求める「自由」は、決して単純な逃避ではなく、むしろ社会と向き合いながらも、その中で自分の存在をどう保つかという問題を扱っている。

『箱男』を読んだことで、私は自由とは何か、そしてそれがどのように私たちの生活に影響を与えているのかを再考させられた。箱男が示すように、社会との接点を断つことが必ずしも自由をもたらすわけではなく、むしろ新たな制約を生む可能性がある。現代社会において、私たちは自分の「箱」に囚われがちだが、それをどう乗り越えるか、そして真の自由をどう手に入れるかが重要な課題なのではないだろうか。

匿名性とアイデンティティ
山邉佳奈(YAMABE Kana, 11年)

安部公房の『箱男』は安部公房生誕100周年の今年、石井岳龍監督により実写映画化されたことでも、今期一番の旬の本と言っても過言ではない。

題名の通り、箱に入って街を観察する箱男たちの話で、「覗く、覗かれる」というメカニズムが題材である。まだインターネットが存在しない時代に出版された本だが、現在のインターネット社会の匿名性とも通じており、50年以上前の文学とは思えないほど新鮮だった。 

私はなぜ箱男が進んで箱に入り、「覗く」という行為を通して社会に加わろうとするのか考えて読んでいた。箱男は乞食やホームレスと異なり、箱の中に入り、そして箱から出てきた後は何か別のものへと進化するという。これは今も私たちが自分の「アイデンティティ」を求めるためにしている行為と似ているのではないか。インターネットでも、教室でも一回他者を「覗く」立場から、どう他人が人間を観察するのかみる。そしていざ自分も「覗かれる」立場になったら何が一番印象的かを見定めようとするからだ。「自分らしさ」や「唯一性」を求められるようになった社会で生きるには、自分の個性を探すために相手を観察する必要がある。

だがそれと同時に、社会から自己疎外して、ただ「覗く」立場にまわる、箱男のような人間になる危険性も感じた。それは、社会に出て経験を実際に積み、「覗かれる」事に慣れる、もしくは一部になる必要があるからだ。最終的に箱男は、箱に入り「匿名」という概念に守られていながら、固有名という自分のアイデンティティを象徴するものを消すことで、本物と偽物の境目が曖昧になってしまった。そのくらいアイデンティティは繊細で脆く、箱に入るといった究極の選択を取るだけではそう簡単に手に入れられないのである。

私もこれからは、真の「アイデンティティ」を求めて日々生活しようと思った。

箱男のカバー

(記事、写真提供:慶應義塾ニューヨーク学院)

                       
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